アニメ【四月は君の嘘】感想#実写を踏み台にして、ただの難病ものに終わらなかった素晴らしさを語る

『四月は君の嘘』におけるアニメ作品について述べていきます。その際に、原作や実写映画についての言及が発生すると思われます。

アニメ化には感動した分だけ、実写映画作品には厳しく当たってしまうでしょう。
実写映画『四月は君の嘘』には厳しい意見を上げてしまうことをご承知ください。出演の広瀬すず及び山崎賢人の当作品に対するアプローチの仕方には非常に辛い評価を下しております。他出演作において評価できることもある両名ですが、当作品に限る評価を下しております。
つまるところ実写化の監督へ至るわけですが、取り敢えず広瀬すず・山崎賢人のファンならば、当記事はオススメ致しません。

あくまでアニメ『四月は君の嘘』についてであり、実写化映画は踏み台としての言及になりますこと、ご了解のほどをお願い致します。

ネタバレ及び独自解釈による偏見が含まれる内容であることをご了承ください。製作者などの敬称も略とさせていただきます。

君嘘、その展開概要

原作は、新川 直司(あらかわ なおし)のコミック。『月刊少年マガジン』にて2011年5月号から2015年3月号まで連載され、単行本として全11巻です。

アニメ化は2014年10月から2015年3月まで放送です。ラストは原作コミックとほぼ同時進行。最後を知らないまま観せてくれるプロジェクトはなかなかありません。原作は終了している、もしくは途中でお終いはそれこそ山ほどありますが(笑)
リアルタイムで観ていたからこその感動!それもあったからより思い入れが深くなったのかもしれません。

だから2016年9月に公開された実写化された映画に怒るよりも呆然としたことを憶えています。

因みに舞台化もされており、直近では東京オリンピック開催時期に重なりそうな2020年7月に上演予定であります。

君嘘、両片想いの切なさ

この作品の凄さを痛感したのは見返した際でした。

桜舞う公園でドーム型遊具に上でリコーダーを弾くかをりが振り向いた際に浮かんでいる涙。第1話で初めて公生と正面から向き合う場面は、ラストを観た後では単なる「号泣シーン」へなります。

最初に鑑賞していた際と、もはや趣きを異とします。
いちいちかをりの言動が突き刺さってきます。
天真爛漫ながら情緒不安定な部分は結末を知れば理解できます。公生を力いっぱい振り回し、唐突に涙を流し、入院先のベッドでこそ強気な態度へ出してくる。

どれもこれも、いっぱいいっぱいなんだ。

かをりから透けて見える心象に、何気ない行動が涙腺を刺激します。結末を知ってお終いではなく、知ってからこそが真髄を見せてくる。文句を言ってはバチが当たります。

その舌の根も乾かぬうちにです。
君嘘はシリアスな場面のあとに、ギャグ処理したがる傾向があります。笑いを取るべくカリカチュアといいますか、極端なデフォルメの描写をします。
これが、ちょっとくどいかな、と自分は感じる時がありました。こうした演出が苦手なのかもしれません。
ただし、これは個人的な嗜好の話しです。重くなりがちなストーリーに対し、極端なギャグめいた描写によってバランスが取れた読者・視聴者も多かったと思われます。

万人を納得させる演出など取れるわけがない。
それでもラストにおけるかをりの手紙を読み出す公生『キラメキ-公生とかをりの演奏Ver.-』が流れ出すシーンから写真立て、そしてタイトルバックへ繋がる一連の流れで感情が揺さぶられないなら「それでもオマエは人間か!」と罵倒するでしょう。

最終回の前半において、ピアノを弾く公生へ、公生ためだけに現れた夢のかをり。幻想的な想いのなかでしか共演できない。
まさか実際に二人が共演したのは、序盤においてまだ碌に弾けない公生かをりが無理やり引っ張り出したあの時限りになろうとは!せつなすぎます。

最初で最後の共演となった時点では、まだかをりは輝くようでした。けれどもそれが徐々に色が薄まっていく。姿に生気が失せていきます。

ただそれこそアニメ。もし病いに削られていく姿は、それこそ実際の人物が演じたら敵わない。名演技されたら、ここだけはどうやっても絵では表現しきれないものです。

もし時間が限られた内容のなかで、実写がアニメを越えて描けることしたら倒れていく人間の姿でした。しかしながら、人気俳優のイメージを壊さないためなのか、生々しい現実は観客層に合わないと勝手な判断と下したのかは、分かりません。
けれども人間を描くことを放棄した演出は、アニメ以上に作られた絵面へなります。絵というなかで懸命に弱っていく姿を模索しているアニメに対し、死を間近にしながら綺麗で済まそうとすれば表面的な「お涙」を求める者にしか訴えられないのは自明の理でしょう。

作品を製作すると、ただ生産するという違いをまざまざと見せつけてくれた例となりました。制約多い映画なれば失敗は失敗で楽しめるものですが、創作の心構えで間違えられは何とも述べようがないのです。

演出、そして声優の熱演もあり、ラストの公生かをりのやり取りはアニメ史上屈指の出来となりました。
好きという気持ち。それは出会った春から一巡りしてから、ようやく確かめ合えます。けれども伝えたい相手はもうこの世にいない。ありがとう、としか言えない状況が喪失感を募らせます。

君嘘、等身大のヒロインがもたらす号泣

母を喪った際のトラウマから自分の弾く音が聴こえなくなったピアニストである主人公の男の子。実は死を間近にしていたヒロインの最後の想いで立ち直させる契機を与えます。

ここだけでも充分な感動を呼べるだけの内容になっています。
君嘘は原作を大幅に縮めなければならない映画でも、どうにかこうにかなるだけの主筋があります。
けれども実写映画では、締めである「君のいない春が来る」がない。主人公の公生がこれから失った痛みに耐えながら前へ進まなければならない、覚悟を示したセリフがない。だから実写の公生はただ周囲に励まされるだけの暗いヤツといったイメージで落ち着いてしまう。
実写の椿亮太が好演したことで、むしろ皮肉な結果を招いてしまったようです。

そして何より致命的だったのが、実写のかをりは想いを口にしてしまったことである。どうしても人気若手女優を起用できたのだから、とセリフを口にさせたかったのだろう。けれども最後の最後で手紙を通して「好き」のセリフを出したほうが効果があるとは考えられないものだろうか。

実写化製作に関わった人たち、スタッフや出演者らは、本当に原作を読んだのだろうか。同じ映像作品として影響を受けたくないとアニメは観ないとするのは分かるが、映像化する手前、原作コミックは読み込み考えなければいけない
君嘘だけに限った話しではないかもしれないが、でも一方できちんと製作させている作品もあるわけです。成功・失敗レベル以前の作品は、呑み会のネタにはなるものの、反面にさえするのがきつい。

かをりの行為は捉え方によっては略奪なのである。
恋愛感情に鈍い幼馴染みのカップルである公生椿。少なくとも女性側である椿は自覚ないだけで気持ちがあることを、かをりは見抜いている。
だから、嘘を吐く。公生の親友が好きだとして、椿を介して近づく。手段がそれしかないから、時間のない身としてぎりぎりの方法を取るわけである。

自分が何を仕出かしているから自覚があるから、かをりは言えない。死が迫ることで行動に起したものの、近づくまで。せめてピアノへ戻ってもらいたい。想いは手紙にしたためて、せめて自分がこの世にいなくなってから届けたい。
いなくなってから届いて欲しいと願う。

実写映画においては生前に伝えたさせたかったという意図だったならば、その想いは否定しない。けれども口にさせてしまったことで、原作が持っていた恋愛だけでなく友達の気持ちを考え惑う健気さを持ったヒロイン象をガタ落ちさせてしまった。

アニメを観返せば、かをりには痛みが伝わってくる。そして椿には胸が苦しくなるばかりである。

友達のカノジョに惹かれていくなんて考えもしなかったのだろう。公生かをりに対する気持ちを、本人以上に敏感に察知した椿。明るい表面の下で渦巻く感情が生じてくる。
舞台でかをりを見る公生に、自分へ向けられない視線だと気づいた際の駄々みたいな心情。かをりの見舞いへ行かないとした公生に嬉しく思ってしまう真実。そんな自分に開き直ることをしない椿はただただ苦しむばかり。

いろいろ苦境を抱えていれど、公生はスターとなれる才能を有しています。かをりもまた才能のあるバイオリニストであり、また周囲に連なる演奏家はいずれも将来を嘱望される者たちです。

親友の亮太もまたサッカーで名を挙げられる可能性を秘めていそうです。

椿は運動神経は良いようですが、あくまで学校生活において。部活動のソフトボールで上へ行くということはなさそうです。
どこにでもいるレベルのキャラクターです。才能溢れるキャラのなかで、唯一の凡人と言えるような気がします。そんな普通であるキャラの椿が、妬み・嫉み・独占欲といった感情から見せてくるイヤな気持ち。けれどもそれこそが、我々が日常で抱える感情であり、ただ泣けるだけの難病作品で終わらせなかった重要な要因へ成り得ました。
地に足が着いた作品となれたのは、幼馴染みの心情が大きかった。綺麗事で済ませがちになりそうな「病気もの」に、普段は向き合いたくない感情を挟むことで作品世界が観る者へ迫ってきます。

君嘘は、病いによる死別を間近にしたヒロインの物語であることは間違いありません。
けれども裏から覗くような見方をすれば、幼馴染みのカップルが歩み出すまでの物語と言えなくもないのです。

公生が弾き鳴らす音色が、かをりを始めとするあるゆる女性キャラを虜にする理由であります。ただ椿だけが公生のピアノへ向かっていく姿に複雑な心情を抱けた。これが他の女性キャラと決定的な差であります。

これからの公生かをりから送られた写真を伏せることはないだろう。かをり以上に音楽を介したパートナーは得られないだろうし、求めもしないだろう。

かをりへの想いで潰させそうな公生に弾くきっかけを与えたのは観客席にいる椿のくしゃみであり、踏切の向こうへ消えていくかをりの幻影の先から、踏切を越えてやってくるのが椿である。
やってきた椿に対する公生。両者のぎこちなさがかをりを亡くしてからの冬の期間中は、面と向かってまともな会話がなされていなかったのが窺える。
けれどもそこは幼馴染みらしい乱暴なコミュニケーションを取った椿がそのまま、ずっと傍にいる宣言をする場面は、かをりのシーンに劣らず泣けて仕方がないのである。

椿を描けずして物語へ深みを与えることは難しい。
そうした自覚すらないままの実写化だったため、ただの難病ものとなってしまった。原作を知らなければ泣けるかもしれないが、心に残る作品となれたかどうかは疑わしい。

原作と連動してアニメが製作されたことは、視聴者にとって幸運だった。実写化の意義はこの一点にあります。