仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーションへ向けて【仮面ライダージオウ】手前勝手な考察

それはダメだよ、販売部!と怒りたくなる時があります。
仮面ライダーゼロワンの主題歌『REAL×EYEZ』これを執筆している2019年11月時点で配信されています。
しかしながら発売は2020年1月22日となっております。

配信のレビューに吹き荒れるは「TVサイズじゃねーか」の怒りです。なんじゃなんじゃ、と確認してみれば、うん!これは説明不足だ、これじゃ間違える。

未だ怪しげな商売方法を止められないらしい。こうした売り方の責任を問うとしたら、音楽レーベルかなと考えたりしました(自信はない)

レーベルは、エイベックスか・・・各方面からの要望もあったでしょう、TVサイズを先行とする前例はよくあります。勘違いさせるような説明不足を意図した紹介はレーベルでなく直接販売を担当した部署かもしれない。

社会整備されようとも、芸能ごとの方面はいつまでも「いかがわしさ」と無縁ではいられない。頻繁するクスリ使用で逮捕される芸能人のニュースにつくづくそう考えずにはいられません。

やはりです、手にするなら配信ではなく形となったモノだよ、CDといった円盤が確実なんだよ、と自分の時代遅れの感覚を肯定へ向けたりします(笑)

ところであざとく貼った主題歌のアフィリでありますが、「玩具付き」と「DVD付き」といったバージョンがあります。モノを売る立場であれば金額が張る「玩具付き」でありますが、ヲタ気質が上回るここで書いている人は「DVD付き」をオススメします。
DVDは「スペシャルミュージックビデオ」。「ゼロワン」出演者による「ファン必見」の内容とくる!イズが踊っていたりするのかな?などと想像すれば、説明文に踊らされないよう注意した舌の根も乾かないうちに、といった具合なのであります(笑)

以下、ネタバレあります、独自解釈による偏見もあります(笑)どうか、ご了承のほどを。製作者などの敬称も略とさせていただきます。

仮面ライダージオウは異色作

「ゲストライダーの投入が全編に渡ることで最後が駆け足になり、主要キャストが薄味になってしまい残念な作品」とする旨のジオウに対するコメントが多くみられます。
確かにそうした面は否定できないうえで、ここで書いている人の作品評価は、とても良かったです、ラストのループはお見事です、となっています。

作品の楽しみ方としては、作品中味かキャラにこだわらるか。両方きちんと充実させるべきは、もっともではあるが理想へ走りすぎた建前に近い。

ストーリーはパターンにして6通りしかない。これを極論とし、他が唱えた「2300通り」とした説をとっても、これまで生み出された作品数からして、ごく僅かでしかない。しかもテレビ作品などは性質上スポンサーや世間といった各方面の意見に晒され、さらにストーリーの幅は狭められていく。

しかもシリーズ作品となれば、過去の作品との比較は避けられない。視聴者は無責任にストーリーの粗を探すような真似をしてくる、まさしく当ブログのような感じである(笑)

伏線を張っても視聴者はそれこそ寄ってたかって、解明の意見を挙げたりして、現在のスタッフは大変だとしか言いようがない。しかも何が切ないかと言えば、寄ってたかって妨害かと思うような意見をする者たちが宣伝も担っているわけである。

手に余る連中ではあるが、ファンとはそういうものとして製作スタッフには諦めてもらうしかない。何が言いたいかというと、要は自己弁護であります(笑)

自己弁護ついでに、ここで書いている人の平成ライダーに対するスタンスである。例えとして、もし平成ライダーを知らない人に、どの作品がオススメかと問われれば「どの作品からでも大丈夫だ、ともかく観ろ」と答えます。

特撮に思い入れなくきた相手であれば、平成仮面ライダーのファーストコンタクトはいずれのどの作品でも良いと思っています。ただそうは言っても、ブレイドの当初ぐだぐだと、ヒビキの路線変更については注意を呼びかけるでしょう。言わずにはいられません(笑)

加えて、ディケイドとジオウは特殊であることは伝えておかなければいけません。両作品は過去の作品を踏まえたうえで成り立っており、単体の作品としては観るには少々大変かもしれない。

いや、観られないことはない。けれども過去の作品における思い入れがないと分からない部分は多い。そういった点では、ジオウの方がディケイドに比べ、遥かに顕著である。

なにせディケイドでは敢えて控えめにしていたオリジナル・キャストを、ジオウでは全面解禁といった状況で製作へ乗り出している。

ディケイドが放送されていた当時、どうしてオリジナル・キャストを呼ばなかったのか不思議だった。視聴者からすれば、期待外れもいいところな側面は確かにあった。
けれどもジオウで実際に呼ばれて分かった。ゲストの存在が強すぎる。対抗する主要キャストは、演技を始めたばかりの新人である。積み上げられた重みを真正面から受け止めなければならない。ジオウの主要キャラである、ソウゴ・ゲイツ・ツクヨミ・ウォズを演じる若手俳優たちにとっては少々荷が重かっただろう。

よく連れてきたなぁ〜と「生瀬勝久」の名を発見した際は思ったものである。自分のなかでは、ゴーストの竹中直人くらいの大物を引っ張ってきた感があるが、ジオウの方はそれこそ「必要」でキャスティングしたのかもしれない。ゲスト負けしないための配慮として、ベテランの名バイプレイヤーがジオウこそ必要だっただと思われる。

ディケイド以上に、ジオウは特殊だった。徹底的に過去作品のオリジナルキャストを毎度連れてくるゲストへ重きを置いた作風など他では類を見ない、平成ライダーの異色作とは「仮面ライダーディケイド」以上に徹底した「仮面ライダージオウ」こそかもしれない。

これからにおける作品製作の方向性として、ここで書いている者の意見としては、キャラを優先すべきだろうと思っている。もちろんストーリーが弱くあってはならない。けれども多少の無理が生じる際はキャラを取り、犠牲はストーリーに負ってもらう方が良いと考えている。

例として挙げるならば、消えたキャラを甦らせるかどうかといった場合である。平成ライダーであればエグゼイドの『九条貴利矢』などが挙げられようか。一度は敵に破れ消滅したものの、その後に復活を果たす。
非常に魅力的なキャラであり人気度の高さと新キャラの消滅といった諸事情により、再び姿を現した貴利矢には喜ばしい限りだった。その一方で復活は安易として作品の質を下げる行為だとする意見も根強くあったようです。確かに頷けることである。
ただあくまで個人的としては、とっくに出尽くしたストーリーを広げる最も有効な手段はキャラの存在と考えている。ストーリーとして優良性を取るあまり、キャラを押し込めることはインパクトが弱くなる可能性が高くなるのではないか。

作品としての質よりも、キャラの印象を残すほうがファンは付きやすい。ことシリーズものに至っては、内容よりもまずはキャラ造形であり、いかに活躍させるか。特撮に限れば、その傾向を顕著にすべきだと考えている。

常にキャラが押し寄せる『仮面ライダージオウ』という作品は、仮面ライダーに限らずゴジラやウルトラマンに、戦隊といったあらゆる特撮の作品創りにおける方向性について考えさせられました。
それだけでも、他とは一線を画す作品です。

仮面ライダージオウにおける英断

過去作品がベースにあるため、一見の視聴者には厳しい。まっさらな設定でないため、新人俳優にとってはいつになく大変な門出となる。当番組以前という、外の要素を持ち込むことから単体作品として傑作にはなり得ない。
仮面ライダージオウは、ある意味ハンディを前提とした出発であった。

けれども20作も続くシリーズであれば、必要とされた作品には違いない。長期に渡る特撮作品としては戦隊が最長ではあるが、社会的に注目されるといったレベルで捉えるならば『平成ライダー』ほど長く続いた作品はない。20年間も牽引し続けるなど、かつてない特撮番組である。

ずっと特撮ファンを続けてきた者が、初めての体験をさせられている2000年から絶えず続く仮面ライダーなのである。

たいていは浮き沈みあるエンターティメント作品にあって、第一線で弛まなく続いてきた歴史は区切りを必要としていた。それは製作者というより、むしろ視聴者の方が一度立ち止まって振り返る機会が必要だったように思える。

整理が必要な時期。それを果たす役目を担うというより背負わされたのがジオウである。

ジオウが過去作品へ向き直させたのは、売り上げにおいて歴代平成ライダーでトップだったことが証左の一つとなっているだろう。懐かしいライダーの登場で観直した人は多いはずである。そして再見は、期待で待ち構え観ていた毎週の頃とはまた違った角度から視聴できたのではないだろうか。
年齢を重ねたことで、気づけなかったことや深読みしすぎたり(笑)、個人的には良い機会を与えてもらえました。

だから登場することに意義があり!として、やや甘い見方をしていることは否めない。作品の評価とは別のところで、過去のライダーを出す大変さを慮ってしまってはいる。

だからこそ残念に思ってしまうエピソードがあった。
ブレイドのように最終回後の決着を付けられると、未だくすぶる「まだどこかで」とした余韻が消えてしまった。
カブトにおいては、加賀美の解釈がガタックの存在を低下させて残念な気になった。
個人的に思い入れがある映画から、アクアといったマニアックなライダーが出演して嬉しかったが、最後がデス・エンドときてはなんとも複雑だ。

以上が、ここで書いている人が、ざっと思い浮かぶだけで残念な感じがした事柄である。
ここで「残念」としていることは、作品の出来ではなく思い入れから来ている。スタッフの罪ではないが、きっと自分が感じていない「残念さ」は、それぞれが抱える思い入れで多々発生しているだろう。

終了した作品を弄ることは本当に難しい。況してや、その作品自体と向き合うわけでなく、進行中の作品に乗っけるわけである。ファンの心情など忖度しきれないことは当然で、むしろ視聴者の意向を汲み過ぎれば現行の作品が崩壊しかねない。

結局は、罪な番組になりそうだった仮面ライダージオウ。これも「集大成」に位置付けられた作品の運命か!

ところがである。ジオウこと主人公のソウゴが選んだのは、時間を最初へループしただけでなく、世界もまた別次元とくる。夢オチと言いたくなる「何も無かった事」という結論へ、大した説明もせず強引に持っていく。

ここが、お見事!と自分は思った。なぜなら、これで最終回後の結末も、納得いかない解釈も、敵に倒され悲惨なライダーの結末も、一切がチャラである。ジオウに出演したライダーたちの全ては、それぞれの最終回へ回帰したわけである。

現行作品の完成度よりも、今後を考えた結末を選んだことは英断であった。もっともスタッフにそこまで苦渋があったか、敢えてといった深い決断であったのか、そこは分からない(笑)

しかしながら、ジオウによって過去のライダー作品が縛られることなくなった。この意義はとても大きいように思えるのである。

仮面ライダージオウの王道

ここで書いているヤツは、仮面ライダージオウに歴史的意義以上のことは見出していないと思われているかもしれない。

その通り!なんてことは、ここで書いているニンゲンにあるわけがない。楽しんでいない作品ならば、とっくにブーたれ全開である。

毎度の強烈なゲストに負けない個性を光らせたレギュラーキャストたち。特にウォズはこれまでの作品にない役割をうまく立ち回ってくれた。そして回を追うごとに、いずれのキャラも存在感を増していった。

そして何よりも、ソウゴとゲイツの友情がいい。

平成仮面ライダーにおいて、全作品に共通する事項がある。それは「男の友情」である。

クウガの五代と一条から始まり、ドライブの剛とチェイスといった主人公以外でなど、どの作品にも必ず男たちの友情物語は存在してきた。

節目となる最後の平成ライダー作品では、この主題をこれ以上にないくらいストレートに扱ってきた。
当初は倒さんばかりの戦闘を厭わなかったソウゴとゲイツ。やがて互いを認め合うようになれば、むしろ共に時間を歩みたいとまで意識するようになる。ここまでくれば、例え別の次元で出会してもリセットなどならない。
さまざまな想いを潜り抜けて深まっていくソウゴとゲイツの友情は雑多な解釈を吹き飛ばすほど胸に迫ってくる。

ゲイツの本心は、ソウゴのいる世界で過ごしていきたい。別次元では敵対するゲイツが理解を示した時に見せたソウゴの何ともいえない笑顔。何度も振り返ってしまう良いシーンである。

平成ライダーにおいて、構成・設定は異色作でありながら、テーマは王道の極みであった『仮面ライダージオウ』見事に駆け抜けきったからこそ、『仮面ライダーゼロワン』が新たな挑戦へ踏み出しやすい状況を生んだように思える。

そして前作と現行作が交錯する恒例の仮面ライダー冬映画の今季作品『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』において、過去へ遡るというジオウの設定が不可欠となっている。

『仮面ライダージオウ』は次世代へバトンタッチだけでなく、助けにまで及ぶ作品となったようである。