感想【赤毛のアン】テレビアニメと映画3部作

好きじゃないんだけどなぁ、見ちゃう。その代表格が宮崎駿の作品であります。

公開当時から『天空の城ラピュタ』が好きでねぇ〜。宮崎駿の作品では一番に観返しています。
けれどもラピュタが好きだとすると、絡んでこられる時期もありました。『風の谷のナウシカ』で見せたテーマがない。ストーリーが軽すぎる。飛行石などと都合の良いアイテムなんか出して、御都合主義が窺える。
現に当時に出版されたアニメ雑誌などに厳しい意見が述べられていたように思います。興行成績も良くなかったことが大きく影響していたことでしょう。

現在からとても考えられない低評価の時期がありました。自分の感覚だと、持ち上げられるようになったのはこの頃になってからの感覚がしているくらいです。
ラピュタは後年になって、ようやく認められた作品だと思います。再放映されるたびに人気は上げっていくにも関わらず。ネット上で「バルス」を唱えるお遊びで盛り上がっているだけだ、と主張するアニメ評論家もおりました。そんな遠い昔ではありません。いろいろ理屈をつけておりましたが、そこには以前の自分を守りたい姿勢があからさまなので聞き入れ難い。せめて感情でさばいてくれたほうが、話しと聞けるものなのですが。現在は、だんまりですけどね。

さてここで書いている人はラピュタと他数本以外は、だんまりしたほうが良さそうです。特に後の作品になれば厳しくなりそうです。引退はいい頃合いだと思いましたが、新作へ向けて制作を開始したようです。あまりこの頃のは好きじゃないんだよなぁ〜、と思いつつ観ます!断言してしまいます。

やっぱり死ぬまで作り続けたい人なのである。生粋のクリエイターだから引退なんて体力が続く限り無いだろう。期待しすぎに待ってます(笑)

そんな宮崎駿と共に制作現場に立った人として高畑 勲。自分にとっては、いつまでも印象に残す作品を手掛ける監督です。宮崎駿と比較するといった次元ではなく、これまで鑑賞してきた全体においてです。
自分にとって大事な作品をいくつも残してくれた、そんなクリエイターでした。

以下、ネタバレありの、独自解釈による偏見もありです。どうか、ご了承のほどをよろしくお願いします。製作者などの敬称も略とさせていただきます。

【超オススメの】テレビアニメ版

まず原作

児童文学として扱われる古典的名作『赤毛のアン』著者は、L・M・モンゴメリ。執筆も舞台もカナダです。
アニメや映画において第1作目を題材として終えることが多いですが、その続きは刊行されています。女性一代記といったところでしょうか。アンの人生は描かれ続けられたわけです。
ついには娘の話しまで及び、またアンの周囲にいた人々に焦点を当てたスピンオフまで書かれています。原作に限れば、それこそアンの世界は広く堪能できます。

01 赤毛のアン
02 アンの青春
03 アンの愛情
04 アンの幸福   
05 アンの夢の家   
06 炉辺荘のアン  
07 虹の谷のアン   
08 アンの娘リラ   
09  アンの想い出の日々

スピンオフ   
01 アンの友達
02 アンをめぐる人々

ちなみにここで書いている人は『赤毛のアン』『アンの青春』『アンの愛情』『アンの夢の家』まで読んでおります。新婚の頃まで、といったところです。こいつはそんなもんだということを、素直に告白しておきます。

ところで『愛情』と『夢の家』の間には『アンの幸福』があります。なぜか手を出していません。内容が手紙形式というところが敬遠理由かと考えたいところですが『幸福』という言葉に嫉んだような気がしないでもない(笑)。無理に読まなくても『愛情』から『夢の家』でも支障なさそうだからいいや、と適当な我が性質を告白しておきます。

ただ最近になって知ったのですが、『幸福』は物語としての時系列は4番目に当たるものの、刊行順としてはずっと後だったそうです。
俺ってスルドい奴だな、と自画自賛してしまいます(笑)。でも誰でも気がつくことだったりするかもしれません。さほど熱心な読者でもないので得意なるのはやめておくべきですね。

読んだのは、鉄板中の鉄板だと思っていた「村岡花子」翻訳版です。

しかしながら、超オススメとするアニメが底本としたのは「神山妙子」翻訳版です。実に入手が困難な状況だそうです。けれども現在はネットの恩恵があります。

デジタルブックで読める現状はありがたいことです。なにせ書籍ときたら、2019年9月時点のAmazonにおける話ですが、価格が10倍以上です。11点以上の在庫がありながら、おいおいと言いたくなる高額さです。しかもどれも送料が別ときている。
書籍は嗜好品だから仕方がないのかな、とも思います。けれども表紙もちょっとコワイ感じだし(笑)、他にも翻訳が多数出版されている状況で、この価格はどんなものなのでしょう。売り上げ動向には興味が湧いてきますが、追っかけるまではしません。

それにアンの「その後」を追いかけるための「小説」と捉えております。『青春』以降が出版されているかどうかが重要であります。

1作目『赤毛のアン』に限っては原作を読まずとも、高畑勲が創った「アニメ版を観れば良い!」とここでは断言してしまうのです。

アニメ版

日本アニメーション制作の世界名作劇場枠において放送された『赤毛のアン』1979年1月から12月いっぱいまで、全50話です。監督の高畑勲は演出において全話に携わり、脚本のクレジットにもほぼ登場しています。

ストーリーは原作に忠実です。忠実とはいえ、まるきりなぞっているわけでもありません。オリジナルな部分もあります。原作者モンゴメリの他著書や愛読書から引用してきます。原作の良さを活かすためだそうです。削ったといえばアンが「お化けの森」と名付けるに至ったエピソードくらい。原作へ忠実である、という意味をよく理解した作品なのです。

そして『赤毛のアン』は、作品の性質上アニメ向きであります。
正確にその名を記すなら、アン・シャーリー。年齢時期としては11歳から16歳までの物語です。思春期であり、また身体的にも成長期であります。やせっぽちの小さな女の子から家を支えるまでの女性へ成長します。

ここが実際の役者を使うとしたら難しいところです。演技うんぬん以前の問題です。生物的にどうしようか、といった問題です。子供から一気に飛ばして大人なら、よく似た別の役者にすればいい。実写においては、そうした構成方法を取らざるを得ない。

不自然がないようにするには、演じる女優の成長に合わせるか。けれども1作品に対し何年もかけて撮影など、超大作でもそうはあり得ない。すると原作の設定をいじるか、メイク等で女優の雰囲気を変えるか。どちらにしろ小さかった女の子が背が伸びて健やかな女性へと成長していく過程を忠実に描くことは難しそうだ。

加えて、アンが過ごすプリンス・エドワード島。四季が織り成すなかを暮らしていく姿もまた物語の彩る重要な要因なのであるが、実際の撮影において天候は鬼門である。白い花が咲き乱れる春から雪深い季節まで舞台を用意しなければいけない。
それこそ特殊撮影を駆使しなければいけない。ただ『赤毛のアン』の魅力はプリンス・エドワード島を踏まえてこそなので、不自然さを匂わせてはいけない。リアルっぽいでは受け入れ難い世界なのである。

原作を自然に再現するなら、むしろアニメという手法が最適な作品なのではないか。アニメ推しはそう結論づけるわけであります(笑)

声優

すっかり大御所声優となった島本須美。後のインタビューで『赤毛のアン』で落とされた時は本当に悔しかったと答えています。
そうですよね、と思います。いち視聴者の自分でありますが、アンの声が島本須美でも違和感ない想像が出来ます。スタッフの大半も島本須美推しだったそうです。オーディションで射止める自信もあったことでしょう。

けれどもアン役に採用されたのは、山田栄子。うまくないから、という理由での採用ですから、上手に演じてみせた方はたまらない。けれども島本須美推しだった宮崎駿がアンを抜けて監督した『ルパン三世 カリオストロの城』で起用するようになるのだから人生は分からないものです。実力があれば機会は転がってくる良い例になりました。

破天荒な空想好きの女の子を演じさせるに、少しイメージを崩したほう良い。高畑勲のセンスで決定した主演です。演技に拙い部分があるほうがアンの一所懸命背伸びしているところや、子どもにしては言葉を飾りすぎるという特徴を表現できる。所詮はいち視聴者である自分ごときでは考えも及ばないところです。

山田栄子は『赤毛のアン』を初主演としてから、その後声優として成功を収めております。けれども自分にとっては「アン・シャーリー」を演じるため声優になった人です。それほど役柄へ合っていました。もし監督が高畑勲ではなかったらと思えば、奇跡的出会いとしたか言いようがありません。

アンを引き取ったおじいさんの「マシュウ・カスバート」は、槐 柳二(さいかち りゅうじ)。誰でも聞いたことがあるくらい「おじいさん」を、それこそしょっちゅう演じてきた大物声優です。鬼籍に入られましたが、未だよく耳にする声であります。

この読めない漢字の大物声優で思い浮かぶのは、モグラ獣人(笑)。仮面ライダーアマゾンに味方する怪人として、非業の最後を迎えるところといい、モグラなのに「ちゅちゅーん」となぜかネズミを意識した鳴き声といい、この声あってこそでした。そして声優草創期から活躍していながら、初めてファンレターをもらった役として演じた本人もまた思い出深かったそうです。

個人的にはモグラ獣人と同列視してしまいそうになりますが、やはり最高の役どころとしては、マシュウを挙げます。「そうさのう」と相槌する際の口癖は、他の声が考えられません。シャイで気が弱いとされながらも、アンのいざという際には行動に移る。
そして何よりも亡くなる前日にアンへ向けて語った心情は、他の誰かが出来るものではありません。この場面に迎えるたびに槐柳二という声優がいたことは観る者にとって幸運以外のなにものでもなかった。そう思います。

マシュウの妹であり、アンを躾けつつ翻弄されていたおばさんの「マリラ・カスバート」演じた北原文枝は、これ以前に『奥様は魔女』の吹き替えで名を馳せていたようですが、自分としてはそういう番組もあったぐらいしか知りません。キャリアの基本は俳優としての活動だったようです。
60歳手前にして、初めてアニメを担当する。それは『赤毛のアン』のマリラであり、唯一の作品となります。翌年に事故死してしまうからです。
この女優は、マニラを演じるために生まれてきたような方じゃないか。「ただ一本きりのかけがえない役」となっていることから、自分としてはそう思わずにいられないのです。

【ミーガン・フォローズ主演版】『あの花』で喩えます

令和元年時点における『赤毛のアン』最新作である映画3部作に入る前にであります。

ミーガン・フォローズがアン・シャーリーを演じた1985年製作された実写映画があります。日本では1989年に劇場公開されます。平成元年です。個人的にはハシゴするくらい映画館で観ることへ夢中になっていた頃です。

まさか当時、観ていたものがダイジェスト版とは知りませんでした。だって上映時間が「141分」もあるんですもん!これだけ長ければ、端折りも時間の都合だと信じておりました。
だから後で知った完全版の「195分」には驚きです。なんと、元はテレビ放送用だったと聞いて、さらにびっくり。プリンス・エドワード島における美しさなど、つい映画を見据えた撮影だと思い込んでおりました。
劇場で観て後悔がない映像でした。だから1994年の完全版公開を知らずに逃したことが悔やまれます。ネットもないうえ、当時は映画通の友人頼りです。ダイジェスト版は一緒に行きながら、完全版は一人で行ってしまうという暴挙です。現在においても、自分にネチネチ言われてしまう出来事となってしまいました(笑)

この実写版を語る時に、なにを思い出したかといえば『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』略称は『あの花』でございます。以後、こんなに長いタイトルは連呼できないので、略称で通します。

原作でもあるアニメ『あの花』もう、チョー感動ものよ!と感情が高ぶりすぎたまま訴えていたせいか、却って周囲をドン引きさせてしまいました。振り返っても、つくづく失敗だったと自責の念が絶えません。
とはいえ、友人たちも気にはなっていたようです。ただ11話もあるし、初回だけ観たら暗いし、となかなか踏み込めなかったご様子。そこへ2015年にドラマ化されての放送です。

2時間という尺に詰め込むだけでも、アニメほどの完成度は見込めないのは自明の理です。また、チョー良かっただけに残っているイメージも強い。強すぎるほど残っていたから、むしろ自分は冷静になって観られた感じです。

あれはあれで良かったよ、と呑みの席で自分がドラマに対しての感想をもらします。
すると席を囲んだ友人たちは揃ってです。感動した、思わず泣きそうになったといった類いの感想を口にしてきます。

だから見ろって言っただろ!と、どやしつけたくなりましたが自分もあれから年齢を重ねました。ドラマに留まらず、アニメまで世界を広げて欲しい旨で終わりにしました。

作品の完成度ではアニメほどではないが、鑑賞するには良い。あまりレベルを上げすぎず、イメージも取り敢えず置いておき、普通に観れば良い作品である。
それが80年代に製作された実写版『赤毛のアン』であります。しかもこちらは有り難いことに『あの花』と違ってキャストの不祥事により出荷不能とはなっていない。

2019年時点のAmazon販売において『赤毛のアン』とその続編である『アンの青春』がセットになっているDVDボックスが一番のお得かと思えます。なぜか『赤毛のアン完全版』単体のほうが高額であります。

上記の2作に加え、その後に続いた『アンの結婚』に『新たな始まり』が加わったコンプリートボックスがあります。ブルーレイもこちらの形になります。
完全に揃えたいという方にはこちら・・・とならないのが、ミーガン・フォローズ主演の『赤毛のアン』シリーズです。
時を経て成長したミーガン・フォローズを迎えて製作された3作目からスタッフががらりと変更になっています。作る人間が変わるだけならまだしも、ストーリーが原作とは全く異なる形になります。せめて雰囲気だけでも残して欲しい気がしましたが、これは全くの別物になってしまっております。しかも大しておもしろくないという感じです。

DVDボックスとして分けた。これは販売側が意図したものかどうかは不明ですが、素晴らしい配慮となりました。

時間をかけての製作とは誠に難しいものです。

【赤毛のアン】2015〜2018年までの3部作

現時点(2019年)において最新となる『赤毛のアン』3部作であれば内容も急ぐ必要もありません。充分に期待したいところでしたが、『赤毛のアン』を知らない人に対しては最初に観ないで欲しい作品になりました。

この映画こそテレビ放送の再編集かと思いました。日本でもちょくちょく見られますが、映画の構図を知らない映像です。けれどもこれは個人の趣味に入るとして片づけられる技術的な話しであります。

片づけられないのは、やはりその内容でしょう。
ストーリーは原作をベースにしています。ただしオリジナルの施しとして「一般作」へ馴らそうとした意図が感じられます。キャラクターを際立たせるよりも、観ている人へ違和感を抱かないようにといった意向が見えます。
普通のドラマへ仕立て上げようとしている方向であるため、アンはアンとしての、マシュウはマシュウとするキャラが薄まっていく。良いお嬢さんとして、良いお爺さんとして、類型的な人物像へ近づけていく。

アンの性情は見る人によっては、情緒不安定すぎで見るに堪えられないようです。けれども個性とは強ければ強いほど反発を生む一方で、魅力になります。
両親を早々に亡くし、たらい回しにされる形で過酷な境遇で過ごしてきたのが、アンです。生来の想像力で乗り切るよう努めてきましたが、悲観主義であるところは後天的なものではないかと思われます。異常なほどのお喋りは感情表現がうまく出来ないことから発源した側面もあるのではないか。

カスバート家に引き取られてからのアンは、特に当初において幸福に馴染めないため引き起こしたように映ります。

感情との付き合いが今ひとつ取れないアン。だからマシュウが亡くなった際に、泣けません。泣けないアンを理解できる人はいません。アン本人ですら分かっていないからです。

「1ダースの男の子より、おまえに居てもらう方が良い・・・わしの自慢の女の子じゃないか。アンはわしの娘じゃ」
亡くなる前日に伝えられたマシュウの言葉が甦って、アンは泣けるのです。尋常でない重い痛みは涙にしなければ耐えられないことを、夜遅くに一人きりになってようやく知るのです。

残念ながらこの映画においては、マシュウも普通に大事な娘だとする程度の言葉でしかありません。不器用さが滲む訥々とした直接的表現だからこそ、その心情が胸打つ原作であり、またアニメで採用したセリフは普通のお爺さんの言葉へ置き換えられてしまいました。

この映画ではマシュウの葬儀でアンは涙を流します。一度は泣けたのにそれから涙が出てこないと嘆きます。
近しい人を亡くした者の経験がある人には分かると思いますが、そんなこと当たり前じゃないか、と。一度は大泣きした後は泣けず、また思い出した時に泣いてしまう。それは身近さを感じさせる行為かもしれないが、アンの特性ではない。一般より更に深い感情を見せてくるから、アン・シャーリーの行動に心揺さぶられるのである。

辛辣な物言いをするが、原作者の孫娘が製作総指揮としたのは単なる資金集めに名を出しただけではないか、と疑ってしまう。

アニメで削った「お化けの森」のエピソードにやたらこだわっていたところもセンスのなさを感じた。

けれども製作してくれて良かったとは思う。こうして話題になれば観返す機会にもなり、この年齢になってとする形で作品と向き合える。制作されてきたソフトも再発されるし、関連した書籍も新たに発行される。

やはり良い悪い、どちらへ転ぶにしろ、作り続けられるのは大事だ。

ただここでは、はっきりアニメをオススメしたい。最新の3部作はアニメなり原作を読んでから観るほうが良いように思われる。