その4【仮面ライダージオウ絡みで平成仮面ライダーの思い出語り】仮面ライダー龍騎

マスコミに憤ることがある。
だがここでいうマスコミとは、世間といった包括的を対象にしているのではない。ここで書いている人が興味のみで向けている小さな世界におけるマスコミに対してである。厳密に言えば、アニメより特撮の評論家。よりもっと厳密にいえば、一部のライターに対してである。

名前は挙げないが、評価をずいぶん変えた。徹底的というほど叩いていたにも関わらず、ある時期から沈黙どころか褒めてきたりする。要は作品そのものが力を持っていない時は罵詈雑言を浴びせていたが、評価が高く定まると手もみ状態である。これがツイッターならば理解できるが、雑誌や書籍などでもっともらしく論じられていたわけである。

良さが分かるようになった心境の変化をきちんと記してくれれば、むしろ勉強になる。評価が変わることなど、誰にでもあること。思い込みを糾されることは、とても貴重な経験だ。人生に必要なことである。

それをまるでなかったかのように体裁を繕う。そうすることで、また同じようなことを繰り返す。まったくどうにもならない。

平成仮面ライダーは、特にその初期において旧作原理主義に苦しめられていた。特に『仮面ライダー龍騎』放送開始前はピークに達した感があった。しかしながら仮面ライダーに興味がなかった層が喰いついてきたことも実感できた作品だった。

内容だけでなく、従来の状況を打ち破ったという体験からも『仮面ライダー龍騎』は忘れられない作品なのである。

以下、ネタバレ及び独自解釈による偏見(笑)が含まれますことをご了承ください。製作者などの敬称も略とさせていただきます。

【仮面ライダージオウEP21/22】アナザーリュウガ

ジオウにおけるゲストは主役の城戸真司こと須賀貴匡(すが たかまさ)と編集長の大久保大介こと津田寛治(つだかんじ)でした。

ジオウにおける役どころとしては、かつてニュースサイト「OREジャーナル」を運営していた間柄であった。だけど読者離れで閉鎖に至り、運営会社自体が解散。失意の日々を送っているようです。

龍騎が放映当時の2002年において、ネットニュースのサイトと言われても、ピンとこなかった。どうやって経営を成り立たせているのか、今現在からでは考えれないほど先端をゆく職業分野でした。きっと一時期は興盛を誇ったことでしょう。けれどもそれこそ雨後の筍のごとく立ち上がった新規参入サイトに押されてしまう。所詮は個人経営のサイト。潰れていくという流れはとてもリアルです。

釣り堀で力なく糸を垂らしている大久保編集長が登場した際は、老けたな〜といった感じです。これは津田寛治のことではありません。津田寛治自身は元気いっぱいです。バイプレーヤーだけでなく、演出もやっており、もしかしたら龍騎の出演メンバーのなかで最も多忙だったかもしれません。

このエピソードにおいて、大久保編集長の出演は釣り堀のみです。それだけのシーンですが、すっかりやつれた顔で落ちぶれ感をきっちり出してくれました。
須賀貴匡も髪が短くなっただけで「しんちゃん」そのままでした。終了から16年近く経った現在でも、当時を想起させる熱演は視聴者にとってプレゼントである。

放送当時から幾年も経って想像もつかなかった生活へなったのは、こちらも同じ。しんちゃんと編集長が、もう一度がんばろうと手を取り合う最後は大げさでなく励まされました。このシーンというより、ここへ至るまでの長い年月がもたらしたものです。偏に平成仮面ライダーが長期に渡り製作し続けてくれたおかげなのです。

【仮面ライダー龍騎】思い出

放送当時の苦闘

勤め先では、特撮好きを標榜していた。働き方など検討にも上がらない当時である。休業二日制など、大企業でさえ建前。みんながみんな忙しかった。
そんなかで映画の初日やイベントはいきたかった自分だ。だから「俺は怪獣やヒーローのために生きている」と吹聴しなければ、とてもではないが休みは取れなかった。しかし今になって思えば、もっと別のやり方があったかもしれない。つまり、ここで書いている人は、アホな子なのです。

趣味を隠していなかったせいか、会話のなかで話題として振られてくることがあった。1998年にアメリカ版『GODZILLA』全く怪獣ものを観てこなかった人に、あれがゴジラなんですね、と言われた時はまいったもんだ。

『仮面ライダークウガ』平成仮面ライダー第1作であり、出来栄えをけなす評価などあまり見受けられない、現在となっては。東映へ嫌がらせになるようなモノが送りつけられていたのは有名な話し。改造人間でない、というだけで「仮面ライダーを冒涜している、原作者である石ノ森章太郎が草葉の陰で泣いている」といった具合である。
きちんと見れば分かるが、クウガは主人公が超古代の力を身体に埋め込む形であり、これも一種の改造みたいなものである。笑顔で覆い隠しているだけで、改造人間にされた従来の仮面ライダーを思わせる悲哀を抱えてはいる。警察の協力という新規軸。戦闘員が出てこない?そんなもん、予算の関係に決まっている!そう答えて続けていたものです。

アギトの時は、1話完結ではないからダメだという奴がいたっけ。今頃になって、そんなことを言い出されてもなぁ〜、という感じです。けれどもこの頃くらいですか。昭和の仮面ライダーと同じノリなら観なかったけれども、平成仮面ライダーの作りには魅了された層が徐々に生まれてきたような感じでした。これはあくまでも個人的実感ではありますが。

クウガ・アギトときて、新しい展開を取り入れていくことが認知された中で発表された『仮面ライダー龍騎』ライダー同士のバトルの末に見える結末は!といった衝撃かつ予測もつかない展開に期待していたことを憶えています。

けれども一方で、凄まじいバッシングも巻き起こった。

ターニング・ポイント

龍騎自体の企画が元々から仮面ライダーで出発したものではなく、またスポンサーサイドから全2作とはガラリと変えたいという要望に応えた面もある。製作サイドから革新的なアイディアとして提供したわけではなく、継続していくために様々な事情を絡めた末に生み出された設定だった。

シリーズはせいぜい頑張っても3作目で終了してしまうパターンが大抵だ。平成においては戦隊モノとゴジラシリーズくらいではなかったか。ガメラもウルトラマンも別に3部作というわけではない。それ以上は続かなかったという現実的側面がある。

平成仮面ライダーの存続は、3作目に当たる龍騎にかかっていた。

だが論評を主とする記事では放映開始前から否定が凄まじかった。特に記憶に残っているのが、平成ガメラ以外は認めないとする論調で支持を受けていたライターのぶち上げ方だった。愛情がないスタッフによって作られる仮面ライダーが不憫である、今すぐにでも製作を中止して欲しい、原作者や過去のスタッフに対して恥ずかしくないのか。そんな調子だった。
そして、仮面ライダーを観て育った中高年の消費者から厳しい反発を受けるだろうと締めくくっていた。

消費者の反発によって売り上げが期待できないと言いたかったのだろう。でも普通に考えれば、反発の激しい人がグッズを購入するはずもないので「消費者」とする表現がおかしい。そもそも主な売り上げは若年層によって支えられている。的外れな脅しとしか言いようがない。
何よりも作品を観ないうちから評価を下す時点でいただけない。せめて好き嫌いで述べるべきである。個人の感情に属することならば、それは仕方がないことである。否定はしない。しかしながら個人の悪感情で、世間もそうだと言わんばかりの評価へ繋げることは呆れるばかりだ。自分も含めて注意すべきことだが、ヲタの悪癖として最も注意を要する見本みたいな例だった。

2002年8月公開『劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』これまで特撮など興味を持っていなかった友人から「誘い受けた」ことが忘れられない。それも複数に渡ってである。おかげで4回は観に行った。ちょうど子供を持った世代の友人関係が多かったタイミングもあるが、これこそ子供より親が夢中になったパターンであった。

仮面ライダー龍騎こそ新規層の開拓を実感できた作品だった。

「正義の仮面ライダー同士でバトルさせるなんて、どういうことだ」反発する中高年はこう憤慨していた。

反発しなかった中高年から、すればである。いい歳になれば「正義」の概念が戦いの根源であるくらい承知しておいて欲しかった。アメリカ同時多発テロが起きた直後である。一方を「悪」と決めつける危険性が、いかほどか。与えられた「正義」を盲信することが、どれほど危ういことか。そうした点へ考えが至らなければ、昭和の仮面ライダーが示した正義もまた理解しているとは言えない。

仮面ライダー龍騎はその作品内容もさることながら、ヒーロー作品を観ていくうえでの考え方における分岐点にもなった。だから思い入れ深さが、ひとしおなのです。